120円
ケーキの重み。「はじめまして」。掌にコインが3枚。
実際、彼のところに辿り着くまでには様々な思いが渦巻いた。
長い時間。
永遠にも思えた程の。
電車外の景色が、高層ビルへと移り変わってゆく。
途中、乗り換えないと秋葉原へは着かない。
(…ここで、引き返しちゃおうかなあ)
まだ来ない乗り換え電車を待ちながら、何度も思った。
会いたいけれど、会いたくない。
それはただ、勇気が足りないだけなんだけど…。
『次は秋葉原…』
アナウンスにびくっとする。
(ああ、着いちゃう)
まだ今なら引き返せる。
降りた足で反対側のホームへ回って、来た電車に乗るだけでいい。
けれど、私は目的地で降りた。
改札をくぐる瞬間まで迷いに迷っていたが。
今、ここで会っておかないと、チャンスはこれっきりかも知れない。
どうする?
会うの?
帰るの?
「決断に迷ったら積極策をとる」。
常日頃からの自分のやり方に従った。
駅を後に彼のバイト先へ向かう私の足取りは、少しだけ軽くなっていた。
どんな人だろう、すごいおじさんだったら?
ものすごく性格悪い人だったら?
相変わらず思い悩んではいたけれど、とにかく『会う』と決めた事で幾分楽になった。
(ここだ)
『角を曲がるとすぐ、うちの看板が見えるから。』
彼はそう言っていた。
どきどき、というより、びくびくしながら角を覗き込む。
あった!あの看板がそうだ…。
思わず足が止まる。
自分の心臓の音が聞こえる気がした。
ケーキの入った袋を持つ手が震える。
(何でこのケーキ、こんなに重いの?)
しっかり握りなおし、口をぎゅっと結び、足を踏み出す。
ここまで来たら、行くしかない!
段々と店が近づいてくる。
あと5歩、4歩、3歩…。
止まる事が出来ずに、中を覗いながら通り過ぎてしまった。
(1階には、いないみたい…)
確か、彼だけ黄色いジャンパーを着てる、って言ってたはず。
通り過ぎた先で考える。
2階と、地下があった。
どっちに行くか?
お店の人に「黄色いジャンパーの人に会いたい」って聞けばいい。
でも…そんな事、何だか恥ずかしくて聞けない。
よし、地下にしよう。
踵を返して、お店の横の階段を下りていく。
(下にいればいいなあ)
階段を下り切ったところでそう思った。
緊張は最高潮に達していた。
入り口から覗き込む。
思ったよりずっと狭い店内。
結構、客がいる。
邪魔にならないよう、端に寄ってぐるんと店内を見回す、までもなかった。
すぐそこのレジに、黄色い服の男性がいた。
この人…かな。
10秒ほど、確かめるようにお互い見つめあう。
(黄色いんだから、この人だよね、きっと)
でも、何て呼びかければいいんだろう?
私、この人のHNしか知らない…。
とりあえず、凍りついた笑顔を浮かべてみる。
その時。
彼が私の本名を呼んだ。
「○○さん、だよね?はじめまして」
えっ!?あ…そうか。
ICQを入れた時、最初、本名にしていた私。
彼に「女の子は本名は止めた方がいいよ」って言われて、HNに直したんだっけ。
だから知ってるんだ。
正直、ほっとした。
彼からアプローチしてくれなければ、自分では動けなかった。
私はケーキの入った袋を掲げ、今度はにっこり、笑ってみた。
2人でお店の前に出る。
改めて挨拶。
そして、私にしては珍しくまじまじと、相手の顔を見る。
(何だか、とても普通の人だわ。歳も同じぐらいだし)
今思うと本当にばかげた感想だけれど、その時は心からそう思い安心した。
そして、自分でも驚いた事にこうも思ったのである。
(あたし、この人となら付き合ってもいいなあ)
特別かっこいいとも思わなかったし、私が惚れっぽいわけでもない。
ただ、この時は運命としか言い様の無い感覚で、そう思ったのである。
他愛ない話をぽつぽつとするうち、確信を覚えた。
(あたし、この人と付き合うことになる、絶対)
何と言うか、直感でしかなかったけれど、それが正しかった事は今なら分かる。
当初の目的であったケーキを無事渡す。
「んじゃ、バイトに戻るわ」
そういう彼に「ありがとう、またね」と返して去ろうとした、その時。
「これでジュースでも買って帰んな」
そういって渡された120円。
「なんか、子供みたいねえ」
声をあげて笑いながら受け取る。
「ありがと。がんばってね」
駅に戻るまでの間中、ずっと120円を握り締めていた。
嬉しくて、ずっと取っておこうと思った。
ほんの5分程度の初対面の記念に。
(あー…、でも、喉からから)
思い直して、駅の中のコンビニで有難く使わせてもらった。
『彼に買ってもらった』ジュースを片手に、幸せな気分で帰りの電車に乗り込んだ。